昭和48年12月26日 朝の御理解
御理解 第21節
「信心せよ。信心とは、わが心が神に向かうのを信心というのじゃ。神徳の中におっても、氏子に信なければおかげはなしカンテラに油いっぱいあっても、芯がなければ火がともらず。火がともらねば夜は闇なり。信心なければ世界が闇なり。」
信心せよ。信心とはわが心が神に向かうと言う事。長い間信心を続けておりますと、信心を致しておりますと言う事ではない。神様へ向かって近づいて行くと言う事。神様へ向かって一歩前進すると言う事。そういう神様へ向かって一歩前進と言った様な事はね、いつも出来るものじゃない。いつも心に金光様、天地金乃神様を称えておると言う事だけじゃない。わが心がいつも神様に向かっておるというだけでなくて、一つのチャンスを与えられたらそのチャンスを逃さず神に一歩前進する事なんだ。近づく事なんだ。
私は自分を見て自分の信心を思う時に、何かがあるたんびに私は一歩づつでも半歩づつでも神様に近づいて行っておるように思う。だからそれにはかならず、おかげが伴っておる。そのために、只金光様といつも称えとります、何十年信心しよりましても、一歩も前進しなかったら、神に向かうと言う事にはならない。それこそ神徳の中におっても、いうならば合楽なら合楽という例えば御神徳が溢れる御広前に御縁を頂いとっても、氏子にその真がなかったらおかげにはならん。火は灯らない。
おかげは頂きますよ、只金光様と称えてお取次を頂くだけで神様へ一歩も近づきよらんでも、いうならしげしげお参りをしてお取次を頂いて、どうぞ商売繁昌をと願い、健康のことを願いおかげ頂きますけどそれでは光にならない。信心なければ世界が闇という、信心なければ家庭が闇だ、信心なければ人の世が闇だといわれる程しの信心というのはどういうことかと。
昨夜○少の感謝の夕べが終わってから、秋永先生達が夫婦で奥の部屋へやって来てから、お茶など頂きながら、いろいろ話させて頂いた事でしたけれども、合楽の方達はね、合楽の信心は素晴らしいと言う事は知っとるです。それは他所からぽかっと来た人達は合楽の信心というか、には触られるはずもないし、素晴らしい所は、只雰囲気くらいは何か感ずるかも知れんけれども、合楽の信心の進め方というか、合楽の信心の有難い事、素晴らしい事はね知ってますけれども、本当に合楽の信心がわかったらね。
神様からは勿論認められるけれどね人からも認められなければほんなもんじゃないです。隣の人達がそうにゃ合楽には参りよってばってんと、隣の者が何かそういう言い方をするなら、只合楽の信心の素晴らしい事を知って、おかげは頂きますけども、いわゆる光がない証拠です。光があれば絶対例えば隣近所のものがね、信心ちゃ素晴らしい信心のその光に潤うと思うです。
第一主人に分らせきらん。家内に分らせきらん、子供達に分らせきらん。それは例えば分らせ、それは一家をあげて信心しよるといってもです、それは只しよるというだけであって、只おかげを頂くからしよるだけであって光になってない。合楽の信心の只おかげを頂くことだけが素晴らしかったり、御理解が素晴らしかったり、又合楽で私を中心にして教会自体がおかげを頂いておる事だけは、素晴らしいと認めてもです、自分自身にそのおかげを現し得なかったら、それは光じゃないです。
昨日そのことを私は秋永先生に話したことでした。先生方本当に合楽の信心をよく知っている。合楽のまあ第一人者だと。なら知っておるだけではない、その信心を例えば大型、小型はありましょう、師匠と弟子の違いはありましょうけれども。例えば師匠が十なら、例え一つでも二つでも合楽の在り方というものを、自分の家庭に現して行きよらなければいけない。それでいて、合楽の信心の素晴らしい事が分った事がいえる。信心によってわが心が神に向かうておるといえると。
信心さしてもらう事によって信心の光を現しておると言う事が言える。どうぞ皆さん達考えてみて下さい。合楽の素晴らしい事だけは知っておるけれども、素晴らしいものがあなた方のどこにあるか、その素晴らしいものが信心の無い人にでも、信心の薄い人にでも認められておるか、合点されておるかと言う事になって来るとです、合楽の信心の素晴らしい事をしっておるだけで、自分のものになっていないと言う事。
ですから信心の無い者が、悩むときにはやっぱり合楽の信心頂いとるけど、やっぱり悩みよるじゃないか。信心の無いものが腹かくことにやっぱり信心があっても、腹立てとるじゃないか。ほんに信心の無い者ばっかりはと、どれだけどこに違いがあるか、只おかげを頂くところだけ違いがあるような信心じゃ駄目だと言う事。そこでです私共が何かのたんびに神に近づいていくと言う事。
わが心が神に一歩でも、前進すると言う事。信心の光が灯ると言う事はどう言う事か。だからそこに焦点を置いて、そこに精進さして頂いて行かなきゃ、只参りよります拝みよります、大祓い十巻上げよります事だけでは駄目だと。もう合楽の巧者な方達が他所へ行くとです、もうそれこそ親先生のいわっしゃる様な事を言い得るし、又知っておるです。知っとるけど、自分では現してはおらないのである。それじゃ光じゃないのだ。
昨日は二十五日の婦人部の幹部研修会で皆さんのいろいろ素晴らしい話しを聞かせて頂いたが、最後に末永先生が話しておった。もう一同の者が大変感銘を受けた。先生が昨日、朝の御祈念の後にお届けをしておることですけれども、もう本当にどうにも出来ん苦しいことがあるという。けれども私のような者でも、神願成就の事のために、お使い下さるならばです、この苦しみはあえて合掌して受けて行きますと言うとる。
だから結局目指すところがね、もっと大きな所へね、本当のところへ目指さなければよい信心は絶対に生まれてこないと、もうどうにも出来ん、苦しいことがありますと、けれども私のようなものでも、神願成就、天地の親神様の願いが成就することのために、御用使うて頂くならこの苦しみはあえて合掌して受けて行きますという。二、三日前西岡先生が誕生日であった。修行生の方達が皆集まって、まあお祝いをお祝いというかまあ誕生のちょっとしたパ-ティのような事をやった。
その時に西岡先生が私のところにも、若先生のところにもみんな色紙をこう持ってきて、何か一筆こう書いてくれとこういう。同じ修行生仲間の末永先生のところにもそれをもって行ったけど、他の方達の書いておられるのは素晴らしい事を書いておられるけれども、自分は書けなかった。それでも書いてくれと言われるから、自分がぎりぎり結着、自分が思うたことを書かせて頂いたという。それはどういうことかはいうとね、土になりたい、泥になりたいと書いたという。
いつかフランキ-堺の映画か何かで、貝になりたいという映画が大変好評を博した事があったです。もう無実の罪の様なことで処刑され死んで行かねばならないときに、貝になりたいと言った。もう深海のだれも知らない、もう自分一人で静かに底に沈んでおられる世界を、今度生まれ替わるときには、貝になりたいと言う様なテ-マの映画だったらしい。末永先生が言いたいのは、本当に貝になりたいという程しのことなんだ。
それを信心さして頂くものが、土になりたいという、私は合楽の信心を一言でいうならば、それだと思うです。土の信心を本当に身につける事なんです。それこそ黙って合掌して、一切を受けて行こうというのであるから、成り行きを大事にするとか、御事柄というような表現をして、合楽の信心をまあ、いろいろ申しあげますけども、もう一言にしていうなら、土になりたい。いや、土になろうという決心なんだ。土というのはある意味では死を意味するものでしょう。
もうそれこそ死んだ気で黙って受けて行こう。苦しいけれどもこれがです、あなたの願いの成就するための修行ならば、敢えて受けて行きますとこういうのである。そういう信心が出来た時に、絶対その人の信心の周囲には、いわば光が輝いてきます。言い訳がない、弁解がましいことがない、不平がない不足がない。只すみません只有難とうございますというだけに絞られてくるのだ。私はそれが光だと思うですね。だから合楽の方達がどんなに巧者な事をいうても、知っておるというても私はこの信心を本気で皆さんが身につけない限りです、周囲に光をもらたすことはないと。
例えば合楽の御広前にどれ程光輝く油がいっぱいあってもです、お互いの銘々の中に芯がなからなければ、どういう芯がもうそれこそ一切を有難いで受けて行くとかそれこそ土になりたいというこの一心なんだ。その芯になら言うとるだけじゃいけん。それに修行が伴うときに、最近末永先生を評して皆が、最近なもうとにかく心境がもう大変進んであるから話を聞いて助かる。だから問題はこれなら絶対光になるところの芯が出来たのであるから、これが愈々點じられる所のおかげを受け行く事なんです。
昨日先生がその事を申しております。本当に私が西岡先生に私は書くことがなかった そのぎりぎりきものを一筆書かしてもらうというて、土になりたいと書いた。書いたらその翌日からもう、恐れ入ってしまうということはね、中古ではあるけれども、土色の洋服のお供えを頂いたという。あくる日は、やはり土色のマフラ-を頂いたという。三日目には土色の何々を頂いたという。もう三日続きましたと言ってます。
如何に神様がね、末永さん土になってくれと言いよんなさることが分るじゃないか。末永さんだけじゃないです、皆そうです。でなかったら光にならんもの。一寸もう何かあったらもう言い訳をする。一寸すりゃもう不平を言う。それはどう言う所にそうなってくるかというと、私はお互いの願いが余りにも小さいと思う。それは秋永先生に限らず皆さんの、毎朝お参りしている方達は、それこそ合楽の信心を説明せろというなら、ぞっこん知っとられるから、お話くらい出来なさるだろうと思う。
合楽の素晴らしい所はここですもんね。合楽の素晴らしい事は分っておっても、自分自身のその素晴らしいものを身につけなかったら何になるか。神に一歩づつ向うて行かなければ、なら、その精進努力をしなければ、心に灯が灯るような信心の芯を立てなければ、そのへんのところがしだごだで中途半端であればいつまでたっても、神に近づくちゅうことは出来ん。わが心が神に向かうということはない。本当に神様がね、それを信心しておかげを受けてくれということは、その事を頼んでおられるのだ。
だから私共がそういう真を立てた所にです、なら神様が物言わんばっかりにです、末永さんの前に手をついて喜んでおられお礼を言うておられるような感じ。奇跡としか思われないようなです、成程この修行を愈々成就さしてもらうぞと言う様なです勇気が出て来る様にです三日間もです同じ衣類が、しかも土色のものがです集まってきたというています。そこに合楽の神様の生きた働きをですね、お互いが感じるわけです。
本当にこの神様はねその気になりゃ、その修行を受けて下さろうとする姿勢をはっきり示して下さる。それが素晴らしい。そこのところの修行を、ならば試みようともしない、只、苦しいことのみをのべる。それでおかげの頂けれるはずがない。そこんところをおかげ頂いたときにです、始めて一歩前進することになる。神様に近づくことになる。それが光の土台になる。それが芯なんだ。
秋永先生に私が申しましたようにですね、合楽の方達はみんな、合楽の信心の素晴らしいことは知っておるけれども、それば本気で自分の身に付け様とする事はしだごだで少しづつ、稽古しよるごたるばってん、本当の稽古には一つもなってない芯になってない。崩れよるじゃないかこう決めたらこうと、例えば大阪のある教会の先生のように少女時代に聞いた話を、私の一生はもう是で行こうというて決めたとこう言われる。もう一切を喜びで受けて行こうという、どんな事であっても喜びで受けて行こうと。
それで思い替え思い替えして、そして継母が魚の頭だけしかつけてくれんときでも、ああお母さんが人の頭になれ、人の頭になれと言うて、私に頭だけつけて下さるとこう言う、思い替えて行く。頭だけで喜ぶからというて尻尾をつけてしっぽをつけた。ほんの尻尾ばかり、大阪あたりではあれを尾という、魚の尾という尻尾の事を尾という。だからお母さんが私に王になれ王になれというて尻尾をつけて下さるというて思い替えをしてでも、そこに有難いというていくことに決めたと。
それは勿論話、落語家の話か何かであろうけれども、それを受ける方の側は、私は一生もうこれで行こうと決めたのですから、そこにああいう阿部野の先生のことですけども、阿倍野のようなそれこそ名実ともに日本一といわれるような教会が生まれた、もう八十からなられるでしょうか、まだ六十四、五にしか見えない若々しさで、元気にそいう御用に立っておられる。
どうぞ一つお互いが芯を一つ立て、そしてその芯に火を灯して世の光ともならせて頂くということ。又いうならば神様の願いをです、一つ本気でわからせて頂いて、この苦しみが神様の神願成就のためにです、お役に立つのならば受けれるという敢えて受けれる所の信心も生まれてくる。目的が小さいともうその苦しみに耐えられなくなってくる。目的を大きな、私共もそうでした、やったら大きな願いを持っておったから。
様々な難儀苦労もこげな大きな願いをしとるんじゃけん、これ位な修行はもう当たり前になっしまった。そうです、大きな願いを立てないからなんです。神に近づく、いわゆる芯を立てる、芯に光を點ずる。信心なければ世界が闇とおっしゃるが、私が今日申しますような、信心をもってして初めて自分の周囲だけでも、明るくすることが出来るおかげになって行くのですよね。
どうぞ。